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[ ――軈て。未だ天には月が残り夜も明けやらぬ頃、深夜と云って好い時間。
背凭れに寄り掛かるようにして寝ていた青年は、カーテンの隙間から注ぐ月光に誘われ重い瞼を上げた。薄く開かれた黒曜石の眸には金の煌めきが映り込み、意識は夢と現実の合間で揺らめく。
暫くの間、言葉も無く唯茫としていたが、椅子から立ち上がれば広間を出、夢遊病者の如くフラリと廊下を歩んでいく。或る一室を目指して。]
[ 数える程しか踏み入った事は無かったが、其の部屋の在る場所はよく知っていた。躊躇いなく歩みを進めて扉の前に辿り着けば、無言でノブを回して開ける。運好く鍵は未だ掛かっていなかった。施錠されていれば、破壊した事だろう。
開いた扉の向こうに広がるのは、此れと云った特徴の無い部屋。人二人が寝てもでも余裕のある豪奢な寝台、奥に置かれた文机に其の傍に在る書棚、何着もの服が収められているであろうクロゼット、他にも多くの調度品が配置されている。
だが室内は黒を帯びた緋色に彩られ、寝台から引き剥がされたシーツはナニカを覆い隠し同じ色に染まっており、現在も尚咽返るような錆びた鉄の臭いは止まない。通常の人間が目にしたのならば、恐怖を呼び起こす光景に違いない。
然し、彼は違った。
漆黒の双眸には虚無の光が宿り、緩やかに視線を巡らせれば、一歩足を踏み入れればコツ、と革靴を鳴らして布に覆われた塊へと近付いて、シーツの端を握ると一気に其れを取り払う。其の下に現れるのは、凄惨としか云い様の無い、嘗て人間であったモノの姿。其れを目に留めれば、自然と口角が上がり笑みを象る。]
[ 其の躯は無残に穢され、傍には胴体と離れ離れとなった腕や足が安置と云うよりは散らばっていて、無事である箇所は殆ど無かった。眼球は澱んだ色をして生の光は無く、骨を奪われ外気に曝された心臓も脈打つ事は最早在りはしない。其処に穿たれた穴の周囲は黒く焼け焦げ、血の香りに入り交じるのは煙の様な匂い。
嗚呼、彼の牧師と同じかと気付き、同時に其の正体にも気付く。――銃弾だ。]
『異端審問官、ね』
[ 物騒な物を持っていると若干呆れながらも、弱者たる人間には其れが似合いかとも思う。彼らの様な人狼と違って、身を護る為の爪も牙も持ちはしていないのだから。否。其れは護る為ではなく、狩る為の物だ。喰らい尽くす為の物だ。彼らはあくまでも狩る側であり、人間は狩られる側にしか過ぎないのだから。]
[ 躯から奪い取ったシーツを足元に敷き其の傍らに片膝を突いてしゃがめば、視線の高さに人間の核が来る。目の前に、緋い、紅い、朱い、赤い、あかい――肉塊。
誘われる様に手を伸ばせば、ほんの一口分の肉を千切り取り口許へと運んだ。
薄い口唇を濡らす、濃厚なあか。]
甘い。
[ 白いテープの巻かれた指で其れをなぞれば あか が移り、指先を見遣ってクスクスと幼子の如き愉しげな聲を洩らした。
舌の上に広がる味は久々のモノで人としての食事よりも甘美ではあれども、屍肉に過ぎぬソレは前に食したモノとは比べ物に成らない程に味が落ちる。
彼れ以上に美味なモノ等存在するのだろうか。自らの手で殺し自らの牙で喰らった彼女の肉以上に。感じる絶望も恐怖も欲望も狂喜も彼れに勝りはしない。]
――……欲しい。
[ 願望は聲と成って零れ落ちる。嗤う。]
[ 此の肉は一口で充分と思ったか、青年は躯にシーツを掛け直すと興味を失くしたように部屋から出る。其処には、彼が居たという痕跡は殆ど残らない。シーツに付いた染みが幾らか変わっていても誰も気に留める事は無いだろうし、抑、此の様な部屋に幾度も来る物好きもいまい。
厨房に立ち寄ればあかに濡れた口唇と指とを洗い、染まったテープを剥がして捨てる。指先の傷痕は、もう既に目立たなくなっていた。
誰にも逢う事無く広間に戻り先程と同じ様に椅子に腰を掛ければ、大分時間が経過していたらしく、合間から覗く月明かりは失せていた。興味無さそうに視線を卓上に移せば、今度は睡魔が訪れたか小さく欠伸をして、己の腕を枕にして突っ伏す。
次に覚醒めた時、青年は恐らく此の夜の出来事を*憶えてはいないだろう。*]
-ネリーの部屋・早朝-
[眩しくて自然と目が覚めた。辺りの静けさに、そう言えば雨は夜に止んだのだと気づき、昨夜の出来事を思い出す。
不安に身を起こせば、同じ部屋で寝ていたはずのネリーの姿はなく。
働き者の彼女のことだ、仕事だろうとは思ったけれど不安で、寝台から抜け出すと廊下へ出た。]
[[広間に行こうとして玄関前を通ることに躊躇った。
あの場所にはもう何もないと知ってはいても、目の裏には凄惨な光景が焼き付いている。
立ち止まり、迷う少女の目に、人影が映った。
一瞬警戒して身を強張らせたものの、昨日、朝ご飯を出してくれた使用人の女性だと気づき、胸をなで下ろす。
声をかけようとして、一歩踏み出した時、彼女もまた自分に気づいた。]
-玄関前-
[使用人の女性は、自分の顔を見てぎょっとしたように後ずさり、背を向けて走り出す。
その顔に浮かんでいたのは、まぎれもない恐怖。
何故、そんな顔をされるのか分からなくて、思わず後ろを確認したから反応が遅れた。
走り出した彼女をわけが分からないままに追い掛ける。]
ねえ、待ってよ。
どうしたの!?
[恐ろしかった玄関も走り抜けて、外に出た。
朝日の眩しさに一瞬目が眩んで立ち止まる。
もともとの距離に加え、大人と子供の差で、既に彼女とは遠く離れていた。
吊り橋の中程を渡る姿が確認し、そちらへ駆け寄る。
昨日までの湿気から比べたからだろうか、やけに乾いて感じられる空気が、咽を締め付けた。]
―早朝―
[ 昨晩迄の雨が嘘の様に、カーテンから射し込む陽光の煌きが青年の頬を照らす。]
ん……。
[ 何時の間にか組んだ腕を枕にして寝ていたらしく、緩慢に身を起こせば左肩を掴んで首を回し、指に巻いた筈のテープが取れている事に気付く。騒動の最中に失くしたかと不可思議に思いつつ、椅子を引いて立ち上がれば男の傍らへと歩み寄れば、其の頬に僅か残る筋は涙の痕だろうか。濡れたタオルを乗せては置いたが其れは最早殆ど用を為しておらず、暖炉の火が弱まっているのにも気付けば、取り敢えずは厨房に向かおうかと項に手を遣りつ広間を出た。
其れと同時、聞えて来た少女の声に何事かと視線を遣れば、外へと続く扉が開け放たれていた。其の先に見えるのは、赤髪の少女の姿。]
[橋のたもとまで追ったとき、既に使用人は橋を渡り切っていた。]
ねえ、なんで……!
[叫んで、吊り橋に手をかける。先に渡った者の所為か、揺れが激しくて一歩踏み出すのを躊躇った。
ただ、逃げ出す背中に視線を突き立てる。
自分の声が届いたのかは分からない。
遠くてこちらを降り返った彼女の表情は良く分からなかった。
その手が動き、赤色が閃く]
―自室・早朝―
[明け方にわすかにまどろめただろうか、浅い眠りから目覚め。
胸騒ぎを感じて窓の外を見れば、炎をあげて燃え落ちる釣り橋。
唖然として窓を叩くも、填め殺しの窓は動かず。]
[ 不審に思い外に出てみればヘンリエッタの叫びが聞えた。]
何をして……、
[ 声を投げ掛けようとした刹那、少女の小さな背の向こう、其の髪の赤より鮮やかに閃いた色に目を瞬かせ――其れが何なのかを理解すると同時、赤はロープへと移される。物が焼ける臭いと薄い煙とが漂うのを認めれば無意識に躰は動き、吊り橋に歩を踏み出し掛けた少女へと駆け寄り、其の小柄な体躯を抱き寄せる。]
行くな、危ない!
[ 火の回りは予想外に早く、此岸と彼岸とを繋ぐ唯一の橋は炎をあげて崩れていく。焔に揺らめく恐怖に充ちた瞳は見えずとも、其の狂った哂い声は耳に届いた。]
[向こう岸に見えたのは、長年ここに使えてきた使用人の姿で。]
…あなたですら…自分さえ逃げられればそれで良いと…。
[ぎり…と奥歯を噛みしめる。]
―厨房―
[ざあ、と水の流れる音。
広間と厨房を往復し、“最後”どころかついぞ開かれることのなかった晩餐会の痕を機械的に片付けて行く。
本来ならば2人でやるべき作業。しかし今朝隣室の扉を叩いても、もう1人の使用人の女性からの返答はなかった。
悲鳴を聞いて駆けつけた客人たちとは違い、何の予告もなしにいきなりあのようなモノ―切り離された主人の足―を見せられたのだ。仕方ないのかもしれない。
或いはそれでも尚変わらず後片付けなどしている彼女のほうが、既に何処か狂ってしまっているのかもしれなかった]
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